福島桜まつりの旅 霞ヶ城篇  2018/04/16

開成山公園から最後の見学地、二本松の霞ヶ城へとバスは晴れて頂上が見えてきた安達太良山を横目に東北自動車道を走らせた。
二本松市に着くと昼食のため隊士館に立ち寄った。正面入り口に二本松少年隊の像が飾られていた。

二本松少年隊は正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、戊辰戦争時、西軍が二本松城に迫ってきた直前に、出陣を志願した12歳から17歳までの少年が各部隊に急遽配属されたもので、組織的な部隊ではなかったことから正式名称はなかった。戊辰戦争後、14歳で出陣した水野(後の二本松町助役)が回想録として「二本松戊辰少年隊記」を作成したことから「二本松少年隊」と命名されたとのこと。

霞ヶ城駐車場入り口のところに何やら石碑が建っていた。見ると「旧日本松藩戒石銘碑」とある。しかしこの碑は石碑ではなく、石碑の向かって左側に置かれている巨石のほうだった。良く見ると字が刻んである。

     爾の棒 爾の禄は 民の膏 民の脂なり
      下民は虐げ易きも 上天は欺き難し

説明書に「日本松藩5代藩主丹羽高寛(にわたかひろ)が藩士の戒めとするため、藩儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)に命じて巨石に刻ませたもの」と書いてあった。当時の藩主としては名君だと思った。
         

安達太良山(車窓にて)
昼食場所の隊士館 二本松少年隊の像が飾られている
旧日本松藩戒石銘碑(左端の石)
旧日本松藩戒石銘碑(赤枠の部分に刻まれている)

  
二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を縫い付ける母の像を表したものだという。

箕輪門。丹羽家初代藩主光重のとき御殿とともに最初に建造した櫓門、はじめ大手門かと思ったが、大手門跡はこれよりはるか遠い現在の歴史資料館の近くにあり、二本松城がいかに広大なものだったかが推測される。

箕輪門をくぐると巨大なアカマツが顔を出す。幹囲が2〜2.5m、樹高9〜12mで樹齢350年をこえるという。
         

二本松少年隊群像
箕輪門
箕輪門のアカマツ
本坂御殿跡

  
相生瀧は竣工が昭和9年と作られたのは最近である。名前は公募によって決まったようだ。
るり池は、初代藩主光重によって造園された回遊式庭園。
洗心亭は城跡内に唯一残る江戸期の建造物で、木造萱葺き寄棟平屋造りの茶庭。
         

相生瀧
フジ棚・霞池・洗心亭
るり池 霞池
洗心亭
丹羽神社 隅々に鎮座するこの像は何?(丹羽神社)
七ッ滝 洗心滝

  
笠松は、別名「八千代の松」とも言われるアカマツの巨木で樹齢300年を超す。近くで見るよりは丹羽神社裏手の丘から見たほうが全体像が分かる。
二合田用水は、城防備を目的とし、安達太良山麓より18kmにおよぶ距離を城内各所に引水した用水。
見晴台から見る安達太良山。枝垂桜と見事にコラボ、一時の休息を得た。
今回は、時間なく搦手門跡まででひき帰せざるを得なかった。桜見学も含め次回のお楽しみとしよう。

二本松を後にしバスは一路東北自動車道を北上した。昨日は曇っていて見ることが出来なかった吾妻小富士の雪ウサギ。今日はしっかりと見ることが出来た。
これは、蔵王の「水引入道」、栗駒山の「駒姿」と同じで雪が融けることによって残雪の姿がそのように見えてくることと同じである。これが見えると麓では田植えが始まると言われている。
         

笠松
二合田用水 搦手門跡
見晴台にて
吾妻小富士の雪ウサギ(車窓にて)