開成山公園から最後の見学地、二本松の霞ヶ城へとバスは晴れて頂上が見えてきた安達太良山を横目に東北自動車道を走らせた。
二本松市に着くと昼食のため隊士館に立ち寄った。正面入り口に二本松少年隊の像が飾られていた。
二本松少年隊は正式に編成された会津藩の白虎隊とは違い、戊辰戦争時、西軍が二本松城に迫ってきた直前に、出陣を志願した12歳から17歳までの少年が各部隊に急遽配属されたもので、組織的な部隊ではなかったことから正式名称はなかった。戊辰戦争後、14歳で出陣した水野(後の二本松町助役)が回想録として「二本松戊辰少年隊記」を作成したことから「二本松少年隊」と命名されたとのこと。
霞ヶ城駐車場入り口のところに何やら石碑が建っていた。見ると「旧日本松藩戒石銘碑」とある。しかしこの碑は石碑ではなく、石碑の向かって左側に置かれている巨石のほうだった。良く見ると字が刻んである。
爾の棒 爾の禄は 民の膏 民の脂なり
下民は虐げ易きも 上天は欺き難し
説明書に「日本松藩5代藩主丹羽高寛(にわたかひろ)が藩士の戒めとするため、藩儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)に命じて巨石に刻ませたもの」と書いてあった。当時の藩主としては名君だと思った。
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