東尋坊・永平寺・奥能登を巡る旅 金沢・八尾篇 

2015/
09/01

北陸新幹線が開通したこともあって越中八尾の「おわら風の盆」を見にやってきた
大宮駅から乗車した<かがやき509号>、客室は広くゆったりとした気分に浸ることが出来、金沢までの2時間の旅は十分に楽しめた。大宮駅構内で購入した駅弁「秋露のささやき」は少々高かったが薄味でおいしくいただけた。年寄り向きかと
思う。

金沢駅に到着してまず目を見張るのが、ガラスとアルミ合金からなる巨大な天井ドーム「もてなしドーム」。
使用した強化ガラスは3,019枚、アルミフレームは6,000本になるという。大きな傘をイメージしていて、駅から降りた人にそっと傘を差し出す、そんな粋な心意気を表現しているという。

ドームをさらに進むと鼓門(つづみもん)という巨大なオブジェがある。高さ13.7mの太い2本の柱に支えられた門は、伝統芸能である能楽・加賀宝生(かがほうしょう)の鼓をイメージしている。 金沢は、加賀藩の初代藩主・前田利家の時代から、代々能楽を愛好してきており、古くから庶民の間にも能楽が溶け込んでおり、このことが鼓をイメージしたオブジェを作らせた要因のようである。
 

北陸新幹線かがやき509号(W7系)大宮駅

吹き寄せ弁当〜秋露のささやき〜

鼓門(つづみもん)

もてなしドーム

金沢駅前

 
このツアーで思いもよらない時間が出来た。それは、ホテルのチェックイン後、次の見学地「兼六園」へ出発するまでの時間が2時間あるという。金沢は今回で2度目だが「東茶屋街」に行くことができず残念に思っていただけにこの時間を利用する手はないと、ホテルに荷物を置き即、金沢駅前からタクシーに乗り込んだ。

東茶屋街に着いて思ったのが、同じ小京都でも飛騨高山で見た光景とは若干違う、むしろ京都の芸舞妓が通う「辰巳大明神」がある新橋通に似ている気がした。

志摩(国重要文化財指定) という建物は文政3年(1820)茶屋町創設当初に建てられた茶屋建築である。「茶屋建築」は二階を客間(座敷)とするため、二階部分を高くつくり通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴。

かみや主屋・土蔵(金沢市指定文化財) という建築物は明治6年(1873)頃の建築とされる茶屋建築。

原神社 。妓楼が公許された文政3年(1820)、卯辰茶屋町で営業が行われた。その際、観音町西源寺の後に菅原道真を祀り、芸妓たちの鎮守の神としたのが始まりという。

宇多須神社(うたすじんじゃ)
本社は通称毘沙門さんと言う。佐和田川(今の浅野川)の辺の小丘から出た古鏡の裏面に卯と辰との紋様があったので卯辰神とし、養老2年(今から1250年以上)多聞天社と称して創建された。また藩祖前田利家公を卯辰八幡宮と称して祀ってあり代々藩主の祈祷所として崇敬篤かった。明治に入り現在の尾山神社として創建され遷座された。明治2年高皇産霊社と改め、同5年卯辰社と改称、33年10月2日現在の宇多須神社と改め、同35年県社に昇格された。

この日の金沢は蒸し暑かったこともあって体を冷やす目的もあって立ち寄った店「森八茶寮」でいただいた「くずきり」、歯ごたえがあり、大変おいしくいただいた。

旧中屋という建物は文政3年(1820)茶に建てられた茶屋建築である。

円長寺。 藤嶋山と号し、真言宗大谷派に属する。加賀藩三代藩主・前田利常が卯辰山周辺に鷹狩りにを行った際、たびたび小休憩場所として利用したと伝えられ、その縁により利常没後、位牌が安置されている。

東茶屋街の見学も終え帰ろうかとしている時、家屋の玄関先におかしなものがぶら下がっていた。よく見るとなんと<とうもろこし>。なんでこんなところに、それも水引と思われるものに包まれている。帰りのタクシー運転手に聞いてみるも分からないと言う。そこで生まれも育ちも金沢だというバスガイドさんに聞いてみたがやはり分からないと言う。よほど変わった宗教のものなのかと思ってネットで調べてみたらありました。「四万六千日」という。

金沢の東山にある観音院という寺で旧暦の7月6日の縁日の日にお参りすると四万六千日いいことがあるという。その縁日で縁起物でとうもろこしが売られており、これを玄関につるすと息災延命・家内安全・商売繁盛などのご利益があるといわれている。別名 「とうきびまつり」と言うそうだ。

 

東茶屋街(東方面望む)

東茶屋街(西方面望む)

志摩(国重要文化財指定)

旧かみや主屋・土蔵(金沢市指定文化財)

黄金の蔵(箔座ひかり藏)

東茶屋街

杉玉(ひがしやま酒楽)

菅原神社

宇多須神社(うたすじんじゃ)

東茶屋街

くずきり(森八茶寮)

旧中屋

東茶屋街

円長寺

四万六千日

 
最初の見学地「兼六園」にやってきた。2年前にやってきたときすでに兼六園は見学済みなので今回はどうしても金沢城址公園を見たかったので、行きたいと添乗員に相談、了解が得られたためツアーの人たちとは別れ石川門へと向かった。

兼六園に向かい合って建つ「石川門」は、かつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門だった。 2層の菱櫓と複数の門が組み合わされた枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造になっており、敵が進入してきたときに勢いを鈍らせる目的で設けられたもの。 白く見える屋根瓦には鉛を使用。溶かして鉄砲弾に作り変えるための工夫だったとも言われている。

五十間長屋 菱櫓と橋詰門続櫓を結ぶ多門櫓(たもんやぐら)。 武器等を保管する倉庫として使用されていたのに加え、非常時には城壁の役目も兼ね備えていた。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門。「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれているが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建された。

平成13年(2001年)に復元された「菱櫓」は、当時は大手と搦手(からめて)を見張る物見櫓(ものみやぐら)として重要な役割を果たしていた。 その名の通り、建物の平面が菱形(内角が80度と100度)になっており、死角を少なくし視野を大きくする効果がある。 建物に使用されている100本の柱にも菱形が用いられており、建設には非常に高度な技術を要したと考えられている。

爪門続櫓 。天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていた。 その二の丸の正門である橋爪門を見下ろす位置にある物見櫓がこの橋爪門続櫓。 三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓だった。

「橋爪門」は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇る。

極楽橋。 二の丸と本丸の間の空堀に架かる橋。名前の由来は金沢御堂の時代から伝わったと言われている。

三十間長屋(国指定重要文化財)。 本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のもの。宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

ツアーの人たちと合流するため兼六園にやってきたが、時間があったので、
徽軫灯籠(ことじとうろう)がある霞ケ池に行ってみた。兼六園はやはり雪吊りのシーズンに来たほうが良さそうだ。
 

石川橋と石川門

菱櫓

石川門

橋爪門続櫓          五十間長屋          菱櫓

河北門二の門

河北門一の門

菱櫓

橋爪橋 橋爪門一の門

橋爪門二の門 橋爪門続櫓

戌亥櫓跡から二の丸を望む
極楽橋 三十間長屋(国指定重要文化財)
兼六園 徽軫灯籠(ことじとうろう)

 
一度見たかった越中八尾の「おわら風の盆。しかし、バスが八尾に到着するのを待っていたかのように雨が降り出し、見物する頃はとうとうどしゃ降りの雨となってしまい、提灯の灯に照らされ優雅に踊り歩く夢に見た光景はついに見ることが叶わなかった。辛うじて、
西町コミュニティセンターで実演していたものを見ることができたが、大変な混雑で、背の低い妻はなかなか見えなかったようだ。来年リベンジしようかと妻と相談している。
 

おわら風の盆(西町コミュニティセンター)
禅寺橋(富山市八尾)