小豆島への旅 備中松山城篇  2016/11/16

つくづくいい時季に来たと思った。少し遅いかなとも思ったが贅沢は言わない。倉敷を出て岡山自動車を北上、降車する賀陽インターチェンジ近くの吉備高原CC付近から見る県道57号線は、紅葉に彩られた山々を縫うように走っていた。

高梁市に着く直前のループ橋を見たとき、天城峠に向かう途中に見た河津七滝ループ橋を思い出した。
1996年、児童書として刊行された、あさのあつこ原作「バッテリー」は2006年に映画化されたが、ここはそのロケ地のひとつ。主人公・巧にオーディションを勝ち抜いた新人・林遣都。巧とバッテリーを組む豪役、巧の弟役にこちらも新人の山田健太と鎗田晟裕。また、巧の母親は天海祐希、父親は岸谷五朗、祖父役は菅原文太がそれぞれ演じている。そしてヒロイン・繭役には2005年“ミス・フェニックス”オーディションにおいてグランプリを受賞した蓮佛美沙子だという。

貸切バス発着所にあった父子像「とうさん」。 高梁市は童謡のまちづくりを目指しているようでこのブロンズ像も「歌うブロンズ像」とあり敷石を踏むと音楽が流れる仕組みになっているようだ。ただ父子像と書かれたの横に「とうさん」と書かれていたが、その意味が分からない。父子像でなぜ「とうさん」?

松山城登り口のふいご峠までは貸し切りバスもしくはタクシーで行くか、シャトルバス発着所まで車等で行きそこからシャトルバスに乗車するしかない。
途中からは道も整備されていて広くはなっているが、登り口は極めて細い山道だ。恐らく昔のままの道なのだろう。よくこんな道を通ってあのような城を建てたものだと驚かされる。

上太鼓丸跡と彫られた石柱があった場所は、高梁市観光協会・高梁市で出しているパンフレットから中太鼓丸跡と思われるが、上太鼓丸跡としては記述がなくここはどこかと考えてしまった。やむを得ず高梁市観光協会に問い合わせたところ、<正式には「上太鼓丸跡」であるが、いつの時点か不明だがパンフを作成した時、誤って「中太鼓丸跡」にしたらしい>とのことだった。その後、「中太鼓丸」として広く出回ってしまったためにパンフレットの訂正も石柱の撤去もできなくなってしまったのだろうと推測される。しかしながら誤りは誤りなので、市と観光協会にはパンフレットの訂正という勇気を持った対応をお願いしたい。
 

岡山自動車道吉備高原CC付近県道57号線
国道484号線高梁市ループ橋
高梁市街地(ループ橋にて)
臥牛山(480m)

父子像「とうさん」貸切バス発着所

ふいご峠(松山城入り口)

石段

登城心得

上太鼓丸跡(高梁市・高梁市観光協会のパンフレットでは中太鼓丸跡になっている)

上太鼓丸跡


上太鼓丸跡を過ぎるとまもなく登下城の分岐 点にたどり着いた。登城は右の道を登ってきたので下城は左の道を行くことにした。どちらもふいご峠に向かっていると言う。

間もなく大手門跡近くになると前方にきれいな紅葉を見ることが出来た。また、大手門跡から厩曲輪(うまやぐるわ)の石塁と土塀を見上げると、青空と紅葉が織り成す絵模様が輝いて見えた。
三の丸から二の丸に向かう長い道の西側には土塀が作られており、ここで、西側からの敵の侵入を防いでいたのだろう。
三の丸跡の上には荷馬をつないでいたという厩曲輪(うまやぐるわ)があった。急な坂道を駆け上がってきた馬などをここで休ませたのだろうか。

松山城の天守はさほど大きくはないが、山城として山の地形をうまく利用し敵からの襲撃には十分耐えられるよう土塀や櫓が随所に配置されており鉄壁の城塞だったようだ。また、上太鼓丸と下太鼓丸を使い山ならではの伝達手段を考えていたと言うから舌を巻く。城を作るにあたり、よほど戦いに精通していた者がいたようだ。

下城途中の山道をゆっくりと下りた。左右の山々から映しだされる眩しいばかりのグランデ−ションからは何とも言えない秋の香りがした。
 
登下城の分岐 大手門説明板
大手門跡
上から見た大手門跡
大手門跡の紅葉
厩曲輪(うまやぐるわ)の石塁と土塀(大手門にて)
土塀 土塀から見る紅葉
三の平櫓跡にて
奥・三の丸跡と手前・厩曲輪 遠く高梁市街地が見える
上番所跡
厩曲輪土塀 厩曲輪
黒門跡 黒門跡付近にて
四の平櫓跡
松山城(二の丸にて)左から六の平櫓・本丸南御門・五の平櫓・天守
本丸石塁(二の丸にて) 本丸(天守より)左から五の平櫓・本丸南御門・六の平櫓
天守
天守 天守(東側)
二重櫓 腕木御門
下城途中の紅葉
下城途中の紅葉
下城途中の紅葉 シャトルバス発着所