小豆島への旅 姫路城篇 その3  2016/11/17

天守最上階から備前丸への見学コースは水ノ四門から。四つ目垣の左手が大天守への道で、右手が大天守からの道である。備前丸(本丸)は池田輝政の藩政時代、藩主と家族が住んでいた所。 備前丸から見た大天守は圧倒される。

これまで登ってきたイの門から水の六門までのルートを「上道(うわみち)」と言い、ヌの門から上山里丸(備前丸)、帯曲輪を経由して本丸に登るルートを「下道(したみち)」と呼んでいる。従って、見学コースのルートに沿って進むため実際の登城ルートとは逆になるがこれからのルートは「下道」である。
 

左 乾小天守 右 西小天守 奥 大天守

西小天守と大天守 (備前丸にて)

 
備前門をくぐる前に備前門と接続する櫓などがある。「上道」のホの門を真っ直ぐ進むと北腰曲輪があるが、そこにつながる櫓がヘの渡り櫓、向かいにはヘの門がありそこを出るとトの一門、トの櫓がある。

トの一門は白漆喰の塗り壁ではなく、素木(しらき)造りという特殊な門。門扉も一枚板ではなく縦格子の半透かし扉で、応仁の乱のころ(1471年)に赤松氏によって建てられた山城である置塩城からの移築物ではないか言われている。
門の形式としては櫓門であり、城外側から見て左側にさらに単層の櫓を付設して守りを固めていて、搦手口の細く急な階段を、攻め手側が登ってきた時の最後の関門がとなっている。

チの門は、大天守の東側天守台に隣接する小さな曲輪に面する棟門で、搦め手を攻め上ってきた敵を最終的にここで殲滅することを意図して作られたもの。攻めてきた敵は大天守および北腰曲輪の土塀、南側の折廻(おれまわり)櫓の窓の三方向から激しい攻撃にさらされる。

チの門東側に位置する井戸櫓は井郭櫓(いのくるわやぐら)と呼ばれているが、往時は単に「井戸櫓」と呼ばれていたようだ。

チの門に接続する折廻り櫓(おれまわりやぐら)は、チの門側からは石垣と1階の建物のように見えるが、備前丸から見て分かるように実際は2階建てとなっている。
折廻り櫓は備前門の2階部分とつながっていて「折れ」てはいるが「廻って」はいない。実は、昔は文字通り折れ廻っていて、全体で凹字型の建物になっていたが、この部分は明治43年(1910年)の解体修理の際に取り除かれてしまった

備前門は池田家が城主だった時代は備前丸に城主の居館があったことから、ここは厳重な防御体制が施されている。門扉だけでなく、柱や梁もすべて鉄板で覆われている。
 

ヘの渡り櫓 への門(右下)

トの門 トの櫓

トの櫓 井郭櫓 チの門 折廻り櫓

折廻り櫓 備前門(備前丸にて)

備前門の表 転用石(備前門)

 
帯の櫓は何やら複雑な形の建物だが、これは建設年代の違う2つの建物が合体しているため。 埋門は帯ノ櫓の脇に、建物の下をくぐるトンネルのような下り階段があり中はトンネルのようになっている。ここの埋門はホの門のとは違い石垣そのものをくりぬいている。
この埋門を抜けると小さな袋小路の曲輪に出るがこれが「腹切丸」。ここで実際に切腹が行われたわけではなく、、一般公開するにあたって作り上げられた「姥が石」「お菊井戸」とともに「三大おもしろエピソード」のひとつだったようだ。

帯の櫓を通り抜けるとヘの櫓(太鼓櫓)が見えてくる。ここの左手の土塀はロの門の石垣爆破事件と同様、映画撮影で傷つけられた苦い過去がある。
1966年、イギリス映画「007は二度死ぬ」の撮影がここで行われ際、「石垣に向かって手裏剣を投げるのなら撮影を許可するが、投げた手裏剣が的を外れるおそれがあるので塀側に向かって投げるのは厳禁。」と明確に釘を刺していたにもかかわらず、監督の独断で塀側に向かって投げたため塀を損傷してしまったというものだった。歴史的財産よりも撮影を優先させた現在のテロ組織「IS]と何ら変わらない最悪の決断だった。

ヘの櫓(太鼓櫓)は、並んで建っているりノ門といっしょになって、二の丸から備前丸へと進もうとする敵兵をここで食い止める役目をしている。

リの門は、帯曲輪と上山里丸をつなぐもっとも狭まった部分をおさえる門である。小さな高麗門でさほどの守備力、攻撃力があるように見えないが、ヘの櫓と一緒になって要衝をしっかりと締めている。 このリの門は、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられた建物という。
 

帯の櫓 埋門
帯曲輪 ヘの櫓
リの門 リの門 表(二の丸側)  ヘの櫓

 
二の丸は上山里曲輪とも呼ばれ、この下を下山里曲輪という。

山里という名の曲輪は、城主がほっとくつろげる休息もしくは風雅を楽しむ空間と位置づけられていたようだ。

お菊井戸は、姥ヶ石・腹切丸と同様、姫路城一般公開の時に、古くからこの地方に伝わる怪談話を、さも城内のこの井戸を舞台として起きた事件のごとく作り上げられた話のようだ。
お菊さんが登場する播州皿屋敷の怪談話は、城の東側、今の県立姫路東高校の敷地のあたりにあった井戸がその舞台だったようだ。
 

大天守(二の丸にて)
お菊井戸 リの渡櫓修復工事現場

ここには明治から昭和の鯱の展示がある。鯱は頭が虎、体が魚の想像上の動物で、口から水をはいて火を消すことから古来より火除けのお守りとして広く建築の最上部に用いられてきた。鯱には通常雌雄があるらしく、神社の狛犬と同様「阿吽の形(あうんのぎょう)」で一対とされ、口を開いている阿形がオス、閉じている吽形がメスと言われている。昭和の大修理の時、最も古い鯱をモデルに再現したようで、姫路城の場合全て吽形のようである。

上山里曲輪の出入り口は、リの門ともうひとつがヌの門である。建物としてはリの渡櫓から直接接続した櫓門。「上道」ルートのニの門と並ぶ姫路城随一の鉄壁の門である。ニの門が「上道」の最後の砦なら、ヌの門は下道をおさえる最後の守備の関門である。
ヌの門の扉・柱・冠木などはすべて鉄板で覆われており、また、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっている。この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもあったようだが、現存例では日本でここだけ、という貴重なもののようだ。これによって、頭上からの攻撃がダブルで集中的に行なうことが可能である。
菱の門から攻めてくる敵にとっては、扇の勾配に阻まれ、ヌの門前の狭い枡形空間の中で集中砲火を浴び、ヌの門を過したとしても二階建て渡櫓からまたもやダブルの攻撃が待っていることになる。
今回は残念ながら、リの渡櫓は工事中のため見ることが出来なかった。

ヲの門はりノ門よりさらに一回り小さい高麗門だったようだが、明治のころ焼失したようだ。

補強石垣はイの門を通過した際、遠く見えたもの。

空堀痕跡は三国堀の真正面の石垣の中央にあり、稜線がV字型に向かい合っているのが見える。 実は秀吉が姫路城を築いたころは、三国堀は捨て堀ではなく、奥の方に続く長い堀だったが、それを池田輝政が奥の方の堀を埋めてしまい、今の三国堀の部分だけを四角く堀として残したという。それであとから石垣の空いているところを埋めたのでV字型の跡が残ったようだ。
 
明治・昭和・平成の鯱
ヌの門 表
ヌの門 裏 ヲの門跡
扇の勾配
将軍坂及びハの門土塀と石垣
補強石垣 空堀痕跡

三国堀は溜め池のような堀で、このような堀を「捨て堀」と呼ぶ。地下の湧き水が地表に顔を出して溜まっているものだそうだ。 名前は、秀吉の姫路城を今日の姫路城の姿に大改修した池田輝政が播磨、淡路、備前の三国を治める大大名であったことに由来しているようだ。  
空堀痕跡の説明にもあるとおり、もともとは長い堀だったものをなぜここだけ残したのか。それは敵の侵略を二手に分けるためのようだ。菱の門を突破した敵は三国堀を見て左右どちらに行くか迷うところ。左に行けば「上道」ルートにあたり「イの門」を初めとする鉄壁な門が待ち構えている。右に行ったとしても「リの渡櫓」の石垣に行く手を阻まれてしまう。あるのは「下道」ルートの小さな「ルの門」があるだけ。このような戦略的な目的のために残されたようだ。

下山里曲輪から見る上山里曲輪の建物と塀は、左が「チの櫓」で、そこから伸びる塀はもともとは多門櫓であり右端には「トの門」という隅櫓が建っていたようだ。

下山里下段石垣の積み方は、他のほとんどの石垣と大きく違い「野面積み」が採用されている。また、石垣が二段になっていて、技術的にまだ高い石垣が築けなかった慶長以前に用いられた手法で「二段積み」と呼ばれている。
このような形状から、この部分は池田輝政の築城よりは前の時代、具体的には天正年間の羽柴秀吉の築城のころに積まれた石垣であろうと考えられており、黒田官兵衛も係わったであろうといわれている。

下山里曲輪の奥に小さな祠といくつかの五輪塔、石灯籠があるが、これらの五輪塔は、修復工事の際に石垣から取り出されたものを組み上げてここに祀っているとのこと。

入城口を出て下山里曲輪に向かう途中、「旧西の大柱」が保存されているところがある。ここには昭和31年から39年にわたって行なわれた天守の解体修理のときに取り換えられた「西の心柱」の現品が保存されている。

大手門を出て左に折れ歩いて5分位のところに城見台公園がある。ここには鯱のレプリカがあり、ここから見る姫路城も中々のものだ。あまり知られていないようで閑散としていた。
 
三国掘曲輪(2枚の写真合成)
三国堀から見た天守
菱の門 裏
下山里下段石垣 
ルの門付近の紅葉
旧西大柱
城見台公園の鯱から見る姫路城